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相木市兵衛、河原村伝兵衛 | 武田に仕えた人物たち |
| 望月六郎、望月千代 |
相木昌朝(相木昌友)(1516〜1567年)
別名:相木市兵衛、相木能登守昌朝。
相木氏は阿江木(あえき)氏とも言われ、小県郡依田荘(上田市)を発祥とし、清和源氏の流れを汲むする依田氏の一族と考えられている。長窪城主の大井貞隆の家老であったが、1484年村上政清・村上顕国(村上義清の父)が佐久に侵入し、大井城が攻略されてからは、相木氏は大井氏を離れ、佐久・相木城を拠点とした。
兼ねてから村上氏を快く思っていなかった相木昌朝は武田晴信の呼びかけに内応し、1544年9月相木昌朝などの手引きで大井貞隆は武田に滅ぼされた。以後は武田晴信に仕え、武田信玄の信濃攻略において地の利を活かし数多くの戦功をあげる。騎馬80騎持ちの信濃先方衆として田口城主となり、甲府にも屋敷を構えることが許された。その後出家して相木常喜(又は相木常善)と称しているようだ。
1561年には武田信玄が相木市兵衛に「善光寺を護り、善光寺平の治安を守るように」と命じたことから、1561年〜1567年に相木市兵衛が老衰で死去するまで、長野市三輪に築いた相木城に居住したと言われている。また善光寺の東方、現在の長野市立城山小学校辺りに「相木城砦」も置かれたとも言う。
相木市兵衛の後、相木城は次男の相木善量(相木七良右衛門善量)が引き継ぎ、相木善量は後に福井県相ノ木の祖となった。また相木市兵衛の長男、相木頼房(室は武田信廉の娘)の子孫は、佐久・南相木の名主として残り現在に至る。
相木市兵衛(依田能登守、依田市兵衛) (?〜1589年)
いつ頃か不明だが相木氏の家督を継いだと考えられ、1562年第4次・川中島の戦いでは別働隊として戦功があり武田信玄より依田能登守の名を与えられた。そして田口城主。
1556年には山県昌景の娘婿となり、1571年4月には野田城攻めにも参加している。
1581年の徳川による高天神城攻めの際、篭城した武田勢の仲に依田能登守隊として依田立慶・依田木工左衛門・依田部兵衛・大子原某・川三蔵・江戸力助の名が見られる。
武田滅亡後には上野・厩橋城に入った徳川勢の滝川一益家臣となったが、本能寺の変のあと徳川の下で信濃を治めようとした同族の依田信蕃(蘆田信蕃)に反発するかたちで、真田や望月、大井、岩尾らと共に北条氏に属した。
北条と徳川が武田の旧領をめぐって対立すると相木氏は田口城に籠り北条氏を支援する。しかし、北条が徳川と和睦し相模へ引上げると、徳川に従っていた同族の依田信蕃(蘆田信蕃)に田口城・相木城を攻められ、北条家を頼り上州に逃れた。
1589年、同じく依田信蕃に追われた伴野貞長らと共に、旧領復帰のため佐久・相木にて挙兵するが、依田信蕃の子で小諸城主・松平康国(依田康国、又は芦田康国)との木次原の戦いで再び敗れて関東へ去る。(討死とも)
松平康国は父・依田信蕃の功績が認められ、徳川家康より松平の姓を与えられ、松平源十郎康国と名乗り小諸城6万石の大名となった。
なお、上記に2人の相木氏について記載したが、相木昌朝と相木市兵衛は共に相木市兵衛を称されていることから、昔からの史料でも混同されており注意が必要である。また、この相木市兵衛と相木昌朝(相木昌友)は同一人物と言う可能性や、養子、同じ相木一族であった(親戚や兄弟?)と言う点も捨てきれない。
河原村伝兵衛 (川原伝兵衛、川原村伝兵衛 、河原伝兵衛)
元は三河の浪人とされ、山県昌景の同心として活躍した。1570年、伊豆・韮山城攻めで、山県昌景隊が深入りし危機に陥った際に、河原村伝兵衛は白地に「船」の一字を書いた旗を指し、1人で6回も敵に突撃をし、山県昌景隊の危機を救ったとされる。
この武功を武田信玄は大変気に入り恩賞として、その場で杯、槍、刀、そして武田信玄自らの手で甲州金を三すくいほど与え、河原村伝兵衛を剛の者と褒めたと言われる。(甲陽軍鑑による)
これ以外に河原村伝兵衛に関する記録は残っておらず、詳細は不明。
望月六郎(望月幸忠、望月六郎兵衛幸忠、望月卯左衛門幸忠)
真田忍者とされ真田十勇士の一人。望月太郎左衛門の長男として1572年?に望月六郎が誕生したと考えられている。
望月太郎左衛門は真田幸隆の代からの真田家譜代の重臣として各地で名が見られる。望月六郎も海野六郎兵衛と同じく、幼少時代から真田幸村の小姓として仕えていた。
望月六郎、望月主水、望月卯左衛門、望月宇右衛門、望月六右衛門、望月善太夫、望月六郎次、望月高野小天狗、そして望月村雄(むらかつ)と名を改めた。
望月家は甲賀流の上忍53家の1つである。元々、望月家は海野家や根津家といった、滋野一族は巫祝集団で、飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団だった。近江の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後に諏訪に定着し、望月氏の祖となったと言われている。
修験者を情報網の中心に据えた望月氏は、武田信玄の家臣・望月盛時の奥方で、のちに甲斐・信濃の巫女頭となった望月千代が組織した女性謀報集団に見るように、武田家の情報網の一翼を担っていたらしい。
望月六郎は、海野六郎兵衛や穴山小助らと同じく、真田家正規の家臣でありながら、鷲塚佐助や霧隠才蔵のような忍びとしても活躍した。
望月六郎は特に火薬、爆薬など火術に優れたと言われており、大筒や地雷火などを製造している。また謀報と火術に長け、真田幸村をよく補佐した。
1584年、望月六郎は僅か13歳ながら真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。海野六郎兵衛と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
1585年、真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
1586年、真田幸村の北条攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。
1589年、真田幸村の小田原攻めに従軍。
1590年、真田幸村が人質として大阪へ赴く際、真田幸村とは別行動。主に謀報活動を行う。 1600年、関ヶ原合戦では、真田幸村と西軍につき、上田城に籠る。
関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸・幸村父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、青柳清庵や高梨内記らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。
1614年大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。 神崎川の戦いで真田大助を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させた。
1615年、真田幸村の補佐役に徹した、望月六郎は影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。
望月千代(望月千代女) (?〜?)
武田信玄の甥、望月盛時(望月遠江守盛時)の妻。
甲賀忍者 を構成する 「甲賀五十三家」 の筆頭である上忍の家柄 「望月家」
の出身で、信濃の豪族(有力者)であり同じ苗字である 望月盛時に嫁入りしていた。
第4次川中島合戦で望月盛時が討死したあと、武田信玄の命にて甲斐・信濃の巫女の統帥となり、「歩き巫女」
を養成。信州・小県郡弥津村古御館に居住した。
孤児、捨て子などの少女200〜300人を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませた。この事から、望月千代は甲賀の忍術を学んだ女忍者(くノ一)であったと言われている。
当時、巫女は口寄せ(いたこ)や祭事を行ったり、各地を回って舞や楽曲を披露したりしていたため、各地の関所を自由に通行することが出来た。一人前になると全国各地に送り、知り得た情報を全て自分の手元に集め、有力な情報を武田信玄に伝えたと言われ、武田家の情報収集に大きな役割を果した。
戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)
日本歴史 人物伝 (武田信玄などに関する記事も有)
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