アサリ ノブタネ
浅利信種
 別名:信音、右馬助、式部少輔
? 〜 1569年

 浅利信種は、侍大将・浅利虎在(1506年?〜1546年)の子として誕生したが生年不明。弟には浅利義益がいるが詳細不明。
 甲斐源氏の一族・浅利義成が甲斐国青島荘浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)に居住し、浅利を称したのが始まりとされ1189年には浅利氏の名が見られる。
 父・浅利虎在は同じ甲斐源氏の武田信虎に侍大将として仕えたが1546年に没している。1546年と言うと、武田勝頼が誕生した年とされる為、武田信虎追放後は、武田晴信に仕えていたと考えられる。
 浅利信種は父の死後、浅利の領地を継ぎ、1546年には譜代家老衆として赤備えの90騎持・侍大将。のち120騎となる。武田家臣の中で浅利信種の名こそ余り聞くことはないが、120騎と言うと主力部隊クラスであり、武田晴信(のちの武田信玄)と同じ「信」の字を称していることから、恐らくは武田晴信(または武田信虎?)より字を与えられたと考えられ、譜代家老の1人として武田家から頼りにしていたことがわかる。

 武田晴信の信濃・上野攻略戦において活躍。箕輪城を武田が攻略したあとには真田幸隆、真田信綱父子、甘利昌忠のあと箕輪城主となり関東方面の責任者となった。
 武田義信切腹の後、武田信玄が家臣に出させた1567年の起請文(誓紙血判状)「下之郷起請文」の取りまとめ奉行を命ぜられるなど、武田家の中でも地位は高かった。
 塩田城に程近い生島足島神社には浅利信種の竜朱印状が現存する。
 この頃、浅利信種は220騎になっていたと考えられるが、1569年三増峠の戦いで討死する。浅利信種が討死した三増峠の戦いは別章にて詳しくご紹介している。

 浅利信種の戦死により箕輪城主には工藤昌豊(内藤昌豊)が入っている。また、浅利同心衆(相備え)は土屋昌次が引き継いだ。
 浅利信種の死後は浅利昌種(浅利式部丞昌種・浅利彦次郎)(生没年不詳)が家督を継ぐが、凡人であったと考えられ被官・同心を減らされる。しかし、のちに120騎の侍大将になっている。武田信玄亡き後は譜代家老衆として武田勝頼に仕える。
 武田家滅亡後は、徳川家康を頼り本多忠勝の家臣となった。

 戦国時代の信濃・甲斐にある諸城の地図(オリジナル)

 日本歴史 人物伝 (武田信玄などに関する記事も有)

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